原宿、ストリートウェアの台頭
「日本で活躍するファッションの特徴は、その背後にいる人々です。過去に対する特別な敬意は、トレンドやブーム、スタイルを定義づける上で大きな役割を果たします。」
Reggie Casual(レジー・カジュアル) 公式Youtubeチャンネルより引用・翻訳
Photo Credit: menswearstyle.co.uk
原宿を散歩する… ファッション志向の人にとっては、おそらく世界で最もスリリングな通りだ。想像しうるあらゆるファッションがそこにある。まさに実在しているのだ。
ファッションがストリートで見られるようになっているのが原宿。ランウェイのことは忘れよう。こここそが、最新の流行を見る場所。歴史の本は忘れよう。こここそが日本のポップカルチャーについて学ぶ場所。
人々をとりこにする日本のストリートウェアの世界へようこそ。着飾るのはただの趣味のようにも見えるかもしれないが、それ以上に大きな意味があることをわたしたちは知っている。
フランスの有名な小説家ジャン・コクトーがかつて言ったように、「ファッションは複雑なものを表現する簡単な方法である」。つまり、一定のトレンドは常に社会的および政治的な理由によって推進されている。日本のストリートウェアの多様性を考えれば、掘り下げられることがたくさんあるわけだ。
具体的にはどのように、原宿は世界におけるファッションの中心地として知られるようになったのだろうか? 『The COMM』は、日本の豊かなファッションの歴史を探求するために、ストリートウェアファッションの第一人者であるReggie Casual (レジー・カジュアル) に学んだ。
1940年代までは、日本ではまだ着物とその他の伝統的な服が一般的だった。洋服が日本に紹介されたきっかけは、アメリカ兵の到来——レコードや雑誌、そしてデニムの販売などを通じてだ。雑誌と音楽に見られたファッションは、日本のそれよりもカジュアルで、若者の関心を引き付けた。
1980年代半ばには、音楽のジャンルからファッションのトレンドが生まれた——ヒップホップはだぶついた服装を、一方、アイドルカルチャーは大胆なシルエットをもたらした。音楽に根ざしてはいないが、最も有名な日本発ファッションもまた、80年代から生まれてくる。「カワイイ」ファッションだ。『Olive (オリーブ) 』といった雑誌は、パステルカラーでビクトリア朝風の遊び心を紹介し、アイコニックなロリータといったファッションへの道を開いた。
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SHIBUYA109 (渋谷109) のようなファッションの聖域や、古着屋が登場したことから、渋谷は東京ファッションのメインステージとなった。若者は他のカルチャーからのファッションを、日本の感性に合わせて調整しつつも、暖かく迎え入れた。
典型的な日本のストリートウェアの基盤が築かれたのは、80年代だった。西洋からの影響は、「当たり前」を壊し、ライフスタイルを変え、のちにファッションシーンを築いた——いわゆる日本のストリートファッションの「黄金時代」である。
1990年代には、東京はストリートウェアの拠点として確立した。それが日本独特のファッションであるという発想も、この時代に生まれた。ファッショニスタの考え方は、渋カジ (渋谷カジュアルの略) のコーディネートを通じて転換を迎えた——「何を着るか」から、「どのように着るか」へ。
シックなパリジェンヌの魅力からフレンチカジュアルも好まれ、人気の高いベレー帽といったアイテムが取り入れられた。またその逆もあてはまり、Kurt Cobain (カート・コバーン) のおかげでグランジが台頭し、日本における好みは多岐に渡るということが示された。
1993年、原宿の裏通りで画期的なことが起こった。原宿の裏側数ブロックにちなんで名付けられた、革命的な「裏原」ムーブメントが誕生したのだ。ここでは、ショップが欧米からヒップホップやパンクのファッションを輸入し、若者が海外のファッションを探求できるようになった。
古着屋だけでなく、原宿の裏通りには、高橋盾「ジョニオ」とNigo (ニゴー、本名: 長尾智明) の「NOWHERE (ノーウェア) 」など、ユニークなブランドも登場して栄えていた。NOWHEREの店舗の半分は、A BATHING APE (ア・ベイシング・エイプ) という名で売られたグラフィックTシャツだった。それは裏原ムーブメントの「おじいさん」ブランドと言われるほど爆発的人気となったものである。
裏原系はストリート中心の、男性らしさと女性らしさを併せ持つその性質によって、知られるようになった。デニムやレザー、たくさんのネイティブアメリカンのアクセサリーを取り入れている。裏原系は1996年に「異なるライフスタイルとポップカルチャーの融合として確立しましたが、日本ならではのファッションでした。そして何よりも、一貫性のあるものでした」とReggieさんは述べている。トレンドにおいて裏原系は際立っており、今日見られる日本のストリートウェアの先駆けとなった。
裏原系のリラックスした雰囲気とは対照的に、より大胆なファッションが表通りでは生み出されていた。「カワイイ」ファッションとロリータファッション、ゴスロリ、そしてサイバーパンクが登場。強烈なネオンから、かわいらしいパステルまで、これらの視覚的にも大胆なムーブメントは、「文化的規範」に反対するもので、その色あざやかなカラーパレットは、アンチ体制主義という力強いメッセージを広めた。それぞれのムーブメントは、起源とスタイルの点で言えば互いに全く異なるが、DIYの精神や、極端なコンセプトなどは共通していた。
「カワイイ」ファッションは、日本から最も輸出されたファッションとして知られるようになった。しかし、Gwen Stefani (グウェン・ステファニー) のような有名人が欧米にこのファッションを紹介したことで、Reggieさんが指摘するように、日本のファッションは「一元的」なものとして解釈された。つまり、すべてがポップ、すべてがかわいい、すべてがハローキティ――。
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この同質的なイメージは、現実からは程遠いものだった。実際のところ、1990年代のファッションは多様性のピークにあった。Reggieさんによると、「流行とは何か」を定義していたのが日本であり、「試してみることを至上とし、アメリカのカルチャーと並べて考えられた」という。比較してアメリカのファッションはつまらなく見えた。後に日本のストリートファッションの特徴ともなった性質は、 個人のライフスタイルが美的センスと同じくらい重要であるということ。例えば、スケーターファッションとスケートボードのマリアージュ。
2000年代になると、日本のストリートファッションは、着ている人が独自に選ぶ組み合わせで知られるようになった。デザイナーがまだ主要なコーディネーターとして君臨していた他の場所とは対照的に。ショップには、新品や古着、そしてヴィンテージが混在しており、カスタマイズの土壌が作り出された。2000年代に見られ始めたものの多くは、90年代に生まれたアイデアをより完全に具現化したものか、またはそれらのリミックスだった。
1998年に代官山に上陸したSUPREME (シュプリーム) は、日本のストリートウェアの方向性に影響を与えた重要な要素だ。事実、近々日本は世界で最もSUPREMEの店舗が多い国になるだろう——6件もあるのだ! どの店舗も、開店当初は完売だった。SUPREMEの人気と、スケーター由来のファッションへの需要は、STUSSY (ステューシー) やHUF (ハフ) のような西洋ブランドの成功につながった。
Credit: bape.com
その一方で、ソーシャルメディアの誕生によって、世界はストリートウェアへの日本独自のアプローチについて知ることができるようになった。欧米のインフルエンサーや有名人が特定のブランドに興味を持つようになった——例えば、Kanye West (カニエ・ウェスト) のA BATHING APE。
必然的にストリートウェアは大衆向けに発売されるようになる。2008年のことだ——GAPやユニクロ、H&Mなど大手の一般向けブランドが渋谷に店舗を構えた。もはや主流ではないカルチャーとは言えなくなった日本のストリートウェアは、ファストファッションを通じて誰もがアクセスできるものになった。つまり、これまでにないほど簡単に、あるいは手頃な価格で、流行に追いつけるようになったのだ。
「 (日本は) 世界のストリートファッションの中心地と言えます」とReggieさんは主張している。それはファッションと、それぞれのジャンルにおける多様性だけでなく、欧米のブランドへのアクセスのしやすさのためだ。日本は間違いなく「ファッションに興味がある人にとって、死ぬまでにやりたいことリストに入る」とReggieさんは付け加える。
東洋と西洋のファッションが調和して融合しているのがここ、日本なのだ。
情報は『THE CASUAL (ザ・カジュアル) 』YouTubeチャンネルより: (1), (2), (3).
Written by Kay Knofi