裏原宿の歴史
ストリートウェア・ムーブメントは、ファッションの無視できない力だ。ここ20年以上で、ストリートウェアブランドは地球規模で勢いを増しており、ダッドスニーカーやぶかぶかのフーディーはランウェイの定番だ。故Virgil Abloh (ヴァージル・アブロー) やNIGO (ニゴー) のようなストリートファッションのパイオニアは今やラグジュアリーブランドを率いるリーダーであり、ストリートウェアとラグジュアリーファッション間のギャップを埋める役割も果たした。
UNDERCOVER (アンダーカバー)、BAPE (ベイプ)、NEIGHBORHOOD (ネイバーフッド)、WTAPS (ダブルタップス) などの人気のブランドの多くには、共通するものが1つある。いずれも「裏原」を生誕の地と呼んでいることだ。1990年代、渋谷の中心部の一角で若者たちによるムーブメントが起こり、そこから日本のストリートウェアのシーンが築かれていった。裏原がストリートウェアのメッカとして世界中にその名を知られるようになったのは、全て藤原ヒロシ、NIGO (ニゴー。本名; 長尾智明)、高橋盾という3人の男性の努力のおかげである。裏原の悪名高き3人組にまつわる伝説抜きでは、日本のストリートウェアは今とは違うものになっていたはずだ。
では、裏原とは正確にはどこか? 「裏原宿」またの名を「裏原」は、原宿のメインストリートの影に隠されたエリアだ。原宿のメインストリートが、「カワイイ」カルチャーの中心地にふさわしいエリアの竹下通りで有名なら、裏原宿はストリート系の中心地として有名だ。竹下通りと裏原はエリアは違うが同じ立ち位置。裏原は控え目で、中古の服や靴が並んでいたり、ちょっと変わったレストランや小さな画廊があったりする魅力的なエリアだ。超カッコイイ建物はほとんど裏原にある。では一体なぜ、原宿のあまり注目されなかったこの小さなエリアがその名をはせるに至ったのだろう?
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すべては1981年、後年ストリートウェアの創始者となった藤原ヒロシが18歳で上京した時に始まった。すぐに彼は東京のエネルギッシュな音楽とファッションシーンに夢中になる。クリエイティブな場面への興味が深まるにつれ、その現場の第一線で起こっている事を知るためにロンドン、ニューヨークやロサンゼルスなどさまざまな都市を訪れて見聞を広めた。同時に、Sex Pistols (セックス・ピストルズ) のMalcolm McLaren (マルコム・マクラーレン) からSTÜSSY (ステューシー) のShawn Stussy (ショーン・ステューシー) にいたるまで、業界で影響力のある著名人たちと仲良くなって長く続く関係づくりに力を注いだ。また、自らの海外旅行の記録として、1987年から雑誌『宝島』で『LAST ORGY (ラストオージー)』というコラムを毎月掲載し始めた。この連載を通して彼は、ヒップホップやパンク音楽、当時の最もクールなDJ、フォトグラファー、靴、米国ブランドに関するあらゆる最新情報を日本の読者に発信した。コラムは国内の若者の間で大評判となり、深夜のテレビで流れるシリーズ番組になった。
当時、BAPEの長尾智明 (別称NIGO) はその番組の大ファンで、番組の録画も毎回欠かさず、藤原の仕事ぶりに心酔していたが、やがて彼のアシスタントとして働き始めることになる。NIGOの卓越したファッションセンスを知った藤原がスタイリングの仕事を任せたのだ。藤原はまた、UNDERCOVER創設者の「ジョ二オ」こと高橋盾や、後にNEIGHBORHOODを生んだ滝沢伸介とも友情を育んだ。その後も長い時間をかけて幅広いネットワークを通じて志を同じくする日本のクリエイターを指導し、彼らとの関係を築くことで、当時の日本人ストリートウェア好きコミュニティーを形成していった。
では、彼らはどのような流れで裏原宿に落ち着いたのだろうか? 1990年、藤原が裏原にGOODENOUGH (グッドイナフ) を開店した。STÜSSYとイギリス発のブランドANARCHIC ADJUSTMENT (アナーキックアジャストメント) にインスパイアされたブランドだ。GOODENOUGH (GDEH) は彼の愛するもの、つまりヒップホップ、スケートボーディング、パンク、サーフカルチャーの全てを組み合わせたブランドだ。デザインの特徴はKarl Marx (カール・マルクス) のイラスト、『Lonely Planet (ロンリープラネット)』と80年代に熱狂的人気を誇ったサーフィンブランドのLIFE’S A BEACH (ライフズアビーチ) のロゴデザインから着想を得たポップカルチャー。初期に登場したコレクションではボンバージャケットやバーシティージャケットがストリートウェアの主力アイテムとなる。GDEHでは宣伝のため限定商品を大々的に売り込んでいたが、いつも販売日当日に完売した。
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藤原のもとで仕事のコツを学んだ後の1993年、NIGOと高橋も裏原にNOWHERE (ノーウェア) という店をオープンした。この店は2つのセクションに分かれていた。1つは高橋のブランドUNDERCOVERの製品、もう1つはNIGOが手がけたアイテムが並ぶ。そしてこれら2つのセクションだけでなく、アメリカからの年代ものや売れ残り品も取りそろえていた。また、グラフィックデザイナーのSk8thing (スケートシング) やWTAPS (ダブルタップス) の西山徹デザインの商品もある。こうしてNOWHEREは、日本のヒップホップやストリートウェアのシーンで急に人気が高まっていく。ほどなくNIGOはNOWHEREの人気上昇に乗じてデザイナーSk8thingの力添えによりA BATHING APE (ア ベイシング エイプ) という自社ブランドを創立。
GOODENOUGHやNOWHEREのオープンに続いて、裏原でストリートウェアの店が増えるのに時間はかからなかった。滝沢伸介のブランドNEIGHBORHOODも裏原で1994年にオープン。滝沢は、フリーのスタイリストだった頃のルームメイトの紹介で藤原と知り合い、彼のレコード会社、メジャーフォースで仕事を始めた。そこでTシャツやフーディーのグラフィック制作のプロセスを見るうちに、ファッションデザインへの滝沢の興味がよみがえった。NEIGHBORHOODはアメリカの情熱と反骨精神にインスピレーションを受けたブランドで、名称には裏原にある近隣のブランドを讃える気持ちがこめられている。
1996年に、裏原にはさらに西山のブランドWTAPSも登場した。ブランド名は 「ダブルタップス」と読み、「W」は 「ダブル」 を1文字で表したものだ。ダブルタップスは射撃のテクニックで、このブランドの製品が主にミリタリースタイルであると分かる。これは西山が軍服の実用性、製造過程、素材に魅了されたことに由来している。WTAPSのアイテムの多くにはさまざまな迷彩柄が取り入れられている。その他にも、フィールドジャケット、ダッフルバッグ、カーゴパンツのラインナップには、西山のクリエイティブな才能が存分に発揮されている。
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GDEHに始まりNOWHERE、NEIGHBORHOOD、WTAPSまでのストリートウェアの店がオープンしたことで、裏原にはクリエイティブな人たちのコミュニティーと、隠れストリートウェアファンの熱狂的な支持者層が生まれた。その結果、裏原エリアは裏原系ファッションの生誕地となった。藤原、NIGO、高橋の3人組はそれぞれのスタイルを築く一方で、それまでは西欧のものだったファッションを、日本の若者ならではのスタイルへ翻訳するという偉業をやってのけたのだ。あらゆる創造性が花咲き、誰もが活躍したくなる地域。裏原は元々そうあるべき場所だったのだろう。
その後今日に至るまで、裏原宿がストリートウェア愛好家にとって特別な場所であることは変わらない。才能ある若者たちが、各々のオリジナリティを発揮して誰も思いつかないような新しいアイデアを生み出す場所だ。この素晴らしい空間の誕生はすべて、藤原、NIGO、高橋という3人のインフルエンサーと、固い絆で結ばれて3人を信奉し続けたクリエイティブな若いファンたちによる、たゆみない努力の結果なのだ。ヒップホップとストリートウェアのコミュニティーに愛されていた頃の裏原からは様変わりしてしまったが、かつての裏原伝説は世界中のストリートウェア愛好家の心とそのファッションに、今も生きつづけている。
Written by Vania, translated by Tomoko.