原宿の歴史
ストリートファッション、クレープ、プリクラに共通するものは何だろうか? 答えは、全て原宿にあるということ! 原宿はいくつかの最も代表的なストリートスタイルの発祥地であり、何世代にもわたり、若いクリエーターたちにとっての東京のお気に入りのたまり場なのだ。過去数十年間でさまざまな原宿スタイルが世界中に広がったが、原宿で現在愛されているファッションは、海外からの影響を受けたことでその道が開けたのだ。竹の子族からデコラまで、東京で最もカワイイ場所の変遷を見てみよう!
原宿の歴史は1940年代までさかのぼる。当時、ここは日本で最初の洗練された国際色豊かな地域だったであろう。第2次世界大戦後、空き地となっていた旧日本軍の練兵場跡地にワシントンハイツと呼ばれる団地が建設された。この団地は外国人、特にアメリカ人家族を地域に招き入れたことで有名だった。原宿付近の若者たちは、その新しい外国人たちと徐々に接触を持つようになる。若者たちは外国人たちのスタイルを羨望の目で見ていたが、同時に今まで見たことのなかった西洋からの刺激により自分たちのファッションを創り出したくなっていった。
1950年代、原宿の次の大規模建築物は、表参道セントラルアパートだ。当初は米軍のために建てられたのだが、多くの空き部屋があったので日本人クリエーターたちが住み着いていた。ファッションデザイナー、モデル、そして写真家が1階にあった有名な喫茶店レオンで出会ったものだった。1964年の夏季オリンピック頃に、ワシントンハイツのアメリカ人が別の基地に引っ越したので、その場所を原宿で最初のブティック、そして深夜営業の商店とカフェに譲ることになった。同時に、ファッショナブルな原宿の若者たちが、原宿族と呼ばれるようになった。
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60年代と70年代、現在裏原として知られている原宿裏通りのアパートの家賃はとても手ごろだったので、若いクリエーターたちが自分たちのデザインした商品やコピー商品を小さな店に売ってもらうために、狭いアトリエで商売を始めた。他のデザイナーは顧客に限定もののコレクションを直接販売するため、竹下通りに小さなショップを借りていた。
1964年、日本で最初のブティックであるMADEMOISELLE NONNON (マドモアゼルノンノン) がセントラルアパートの1階にオープンし、1970年にはそのすぐ隣にMILK (ミルク) がオープンした。少数の限定されたコレクションとお店の規模により、クリエーティブ面の最終決定権をデザイナーが持ち続けたのだ。彼らはマンションメーカーとして知られていた。その呼び名は、原宿で小さなマンションをアトリエとして借りキャリアを始めた経歴を持つデザイナーに敬意を表してのものだ。原宿で生まれたいくつかの最も有名なマンションメーカーとして、MILK、COMME DES GARÇON (コムデギャルソン)、KANSAI YAMAMOTO (カンサイヤマモト) がある。彼らのインスピレーションは原宿の国際的なセンスの良さからだけでなく、海外の滞在経験からも得ている。いい例が山本寛斎だ。彼はロンドンのファッションシーンをじっくり見るためにイギリスへ出かけた。1971年に、山本はロンドンでショーを行った初めての日本人デザイナーとなり、それにCOMME DES GARÇONの川久保玲が続き、山本耀司と三宅一生はパリでショーを行ったのである。
何人かの日本人デザイナーが国際的に有名となったが、原宿は現在のような型にはまらないストリートファッションの中心地としてはまだ無名だった。しかしながら、その後数十年でクリエーティブなデザインの服が街で台頭するようになると、原宿のストリートファッション文化はその後の数十年にわたって脚光を浴びるようになったのだ。1971年には『anan (アンアン) 』が発刊され、その後すぐに『non-no (ノンノ) 』が続いた。両誌は原宿の特集記事を掲載し、クリエーティブでファッショナブルな街だと若者たちにイメージを広めたのだ。
1977年、原宿で最初のクレープ屋が開店したことで、街が大きく変ぼうした。サンタモニカクレープやマリオンクレープのような原宿で有名なクレープ屋は、原宿を表す言葉になった。今日でさえ、ネットで原宿を検索すると、象徴的なこのカワイイスイーツが何十個も見つかるだろう。さらに多くのクレープ屋がその後数十年の間に生まれ、ブランドになったクレープはファッショナブルな人たちの間で楽しんで食べられる、原宿で最も人気のあるストリートフードとなった。1年後、有名な原宿のランドマークであるラフォーレが開店した。このショッピングセンターは今でも原宿で最も知られている建物の1つであり、原宿がクリエーティブな若者ファッションの中心となるのに大いに貢献した。
その頃、神宮橋区域は日曜日に車両通行止めとなっていた。ホコ天 (歩行者天国) として知られたこの通行止めは1998年まで続き、型にはまらない思い思いの格好をした若者たちが友達グループで多く集まるようになった。その結果、原宿の最初のサブカルチャーとして広く知られている竹の子族が生まれた。彼らはカラフルなダボダボのつなぎを着て集まり、大型ラジカセや拡声器に合わせて踊り、後にはバンドさえ現れたのだ! ダンスには盆踊り、ヒッピー文化とアメリカのディスコの動きが取り入れられていた。ブティック竹の子が同時期に開店し、その若者たちの必要とするものを販売していた。このような店は今日も竹下通りにある。
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竹の子族の誕生後、数年のうちに多くのサブカルチャーが原宿の通りで見られるようになった。80年代に日本はバブル景気に沸き、若者たちは自由に使える収入の多くをファッションに使っていた。その頃、欧米企業は、日本を潜在的な広告対象と認識し、東京の市場に参入した。その後間もなく、まだ賃料がかなり手頃だった原宿の裏通り (裏原) にヒップホップとスケートボードの店が次々に現れた。このことが、違うタイプのファッションに興味を持つ人をさらに多く引きつけた。次に続いたストリートファッションのブームは、デコラ、ロリータ、そしてビジュアル系だ。これらの衣装を写真などで取り上げるために、伝説の雑誌『FRUiTS (フルーツ) 』が生まれた。創刊者は青木正一氏で、それ以前はロンドンのファッショナブルな人たちのスナップ写真を撮っていた。しかし、1997年以降は原宿のクリエーティブな若者たちの街角でのスナップ写真を出版することにしたのだ。今日、街角のスナップ写真はInstagramから雑誌までのあらゆるメディアで見ることができる。
2000年代に「原宿」という名前は、ストリートファッション文化の多様性と同意語だった。原宿の日常は、SEX POT REVENGE (セックスポットリベンジ) や6%DOKIDOKI (ロクパーセントドキドキ) のような代表的かつ象徴的なブランド店に買い物に行き、ラフォーレで新進デザイナーを見いだし、そしてクレープを食べプリクラを撮ることだった。それが原宿の最盛期だ! 原宿は単なるショッピングをするだけの場所以上の存在になった。安全な環境で交流することができ、型にはまらないファッションを試す場所だったのだ。インターネットにより、原宿のユニークなファッションシーンも世界中に知られるようになった。年をおって、Lady Gaga (レディー・ガガ) やNicki Minaj (ニッキー・ミナージュ) のような欧米のセレブが原宿ファッションを身につけ、海外に日本のブランドが展開され、『ゴシック&ロリータバイブル』のような雑誌が世界的に発行されているのが見られるようになってきた。クールな原宿の若者たちをちょっとでも見られることを期待して、旅行者が原宿を訪れている。さらに日本政府は原宿のユニークなストリートファッションシーンを利用し始めた。そのクールジャパン事業で、政府はカワイイ文化とファッションを海外へ売り込もうとしたのだ。
原宿は軍事基地から多くの進化と変化を経て、ファッションで商業的な成功を収めた。1940年代から1960年代に海外から受けた影響により、日本のクリエーターたちが今までとは異なる方法でファッションを探求する基礎が築かれた。
しかしながら、ここ数年の原宿のニュースはそれほど芳しくない。ファストファッション有名大手の市場参入により、ショップが閉店し愛すべきストリートファッションが勢いをなくしてしまった。当然、多くの人が心配している。今は過渡期のようだが、そう簡単に諦めてはいけない。原宿は過去80年にわたって常に変化を経験してきて、これからも変わり続けるのだ。街の人たちは、どの世代でも今までのとおりクリエーティブであり、新しい風を持ち込む人がファッションシーンに生まれる。さあ、原宿の次の章を見る準備はできているかい!
Written by Stefanie, translated by Toshi.
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