ギャルの歴史
プリクラ、ルーズソックス、ポケベル、パラパラダンス、日焼け肌、デザイナーズブランドの制服、やんちゃな女の子、援助交際、渋谷109。すべてギャルの構成要素だ。90年代初めに「突如、出現」し、その後数十年続いたファッションに女学生は半狂乱、大人たちは茫然となった。ギャルがファッションの歴史にどのような影響をもたらしたかを見てみよう。
ギャルの起源はおそらく1980年代にさかのぼる。当時、東京のストリートを支配していたのは女性暴走族だった。彼女たちのハードコアなファッション、態度、卒業式のような通過儀礼はまさに現在のギャルと重なる部分がある。しかもそれが今の「ギャルマインド」と呼ばれる、反抗心の具現化であればなおのこと。雑誌 『ティーンズロード』 は小さな街に住む女子高生にヤンキーファッションを紹介した。やがて漢字が刺しゅうされたレザージャケットやボイラースーツがトレンドの中心になると、ヤンキーファッションを真似る人が出てきて、実際の女性ヤンキーがそれに憤慨したという。スタッフが「読者からの暴力にうんざりした」という理由で 『ティーンズロード』 は結局、廃刊になってしまった。女性ヤンキーの中には誘拐された人もいた。
同じころ、渋谷で一流大学のクラブのパーティーが開かれていた。主催はチーマーと呼ばれるまとめ役。裕福なチーマーはまじめに勉強せず、いつもダンスばかりしていた。チーマーのガールフレンドはLAのビーチファッションをまねてパラギャル、つまり「パラダイスガール」の異名をとる。当時のパラギャルは知る由もないが、そのセンスは1990年代に受け継がれるファッションのもとになった。
コギャル (「コ」は「小さい」または「子ども」の意) は1990年代に登場した。その名はもともと警備員のスラングで、年長者を装ってクラブに忍び込もうとしたパラギャル女子高生を指したとされる。茶髪、短めの制服スカート、ブランド制服のブレザー、オーバーサイズのカーディガンに、少しだけ日焼けした裕福な女子高生は当時、流行の火付け役だった。白のルーズソックスと白いアイメイクをプラスすればパーフェクト! でも、なぜ放課後に制服? 実は、有名校によるファッショナブルなデザイナーズブランド制服を用いた学校PRは、新入生をゲットするためによく使われる戦略なのだ。生徒たちは放課後もブレザーとスカートを着ることによって、センスが良く有名校の生徒であるという証拠と自分たちの若さを世間にアピールした。
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そしてとうとう、女子高生たちは渋谷109を占拠する。ME JANE (ミージェーン) のクロップトップやESPERANZA (エスペランサ) のプラットフォームサンダルなど、店内のものは全てコギャルになるための必須アイテムと見なされた。初期のコギャルの多くは109のテナントで働き始め、「スーパーカリスマ店員」と呼ばれる有名なギャルファッショニスタになった。また、絶大な人気を誇った安室奈美恵のナチュラルなギャルスタイルは、ギャル系を主流ファッションへと押し上げた。沖縄生まれの彼女はもともと小麦色の肌をしており、明るいブラウンの髪と白のリップがトレードマーク。ステージ衣装は109で見たようなファッションだ。そのため安室ファンは彼女に憧れて細眉、プラットフォームブーツ、カラフルなヘソ出しTシャツスタイルを真似た。こうしたファンはアムラー(安室の大ファン)と呼ばれ、これによってギャルファッションが広く波及していった。
1995年、ギャルファッション及びライフスタイル誌としての情報量ナンバーワンを誇る『egg (エッグ)』 が創刊された。何だかんだ言ってもギャルは他人にどう思われようと気にしないし、けばけばしい自分でいるとわくわくする。セックスのとらえ方がポジティブで、自分だけのスラングまで作っちゃう。『egg』 は板橋瑠美や渡辺かおるのような、読者モデルからモデルになったコギャルのストリートスナップも撮った。一方で、「プリクラ (プリント俱楽部)」も同じ1995年に登場した。ビジネスマンが名刺に使う自分の小さい写真を撮るために作られたこの製品が、ギャルカルチャーで大人気となり『egg』 のページというページがプリクラ写真で埋まることなど、誰も予想しなかった。
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1990年代末、大人たちは日本社会のモラル崩壊を危ぶんでいた。ギャルマインドで生きるコギャルは、援助交際 (金品を要求するデート) をしたとして格好のターゲットになり厳しい非難を浴びた。彼女たちは、「ポケベル (かつての無線呼び出し器)」 や 「テレクラ (テレフォンクラブ)」 などの新しいテクノロジーと共に育った世代として、思いどおりに行動できると同時に大混乱を引き起こしかねない存在だった。例えば、デートしたい男女が知り合う目的で作られた 「テレクラ」 にコギャルが電話をかけてくると、男性は彼女と知り合えるどころか、ただ約束をすっぽかされるだけ、というような。
ティーンの女の子は慢性的な買い物依存症である、と広く認識されていた。お金欲しさのため使用済みの下着を会社員の男性にためらいもなく売ると思われていたのだ。たとえそれがたった一握りのコギャルの仕業だとしても、メディアは容赦しない。コギャルは「恥ずべき」公衆道徳の一部とされてしまった。逆に、メディアが援助交際を報道するごとにますます多くの女子高生が大金を稼ごうと渋谷の通りに集まってくる。こうして最終的に、コギャルファッションを少女売春と結び付ける風潮ができてしまった。
10年続いたコギャルブームの後、別のサブカルチャーとギャルサークルが現れた。中でも特に有名だったのはAngeleek (アンジェリーク) だ。Angeleekは当初 「ガングロ」 と呼ばれる、肌を黒めに塗った少女たちのサークルだった。「ガングロ」 から 「マンバ」 「ヤマンバ」 などのスタイルに分派した。ヤマンバは、超ダークなファンデーションに真っ白のアイライナー、きつめのノーズシャドウで鼻の輪郭を強調。頬にはラインストーンや花のデコシールが。その上さらに、トロピカルなビーチファッションとフラワーアクセサリー。とにかく強烈で、一度見たら決して忘れられないのがヤマンバだ。しかし2000年代初めにはこの過激なファッションは急に消滅する。見る者に嫌悪感を与えるという悪評のせいで、彼女たちは別のギャルへ転向するか、ギャルを完全に辞めるかのどちらかを迫られた。あの『egg』 ですら、数か月間休刊となった。ギャルは絶滅してしまったのだろうか?
いや、そうではない。 2000年代半ばに思いがけなく生じたギャル再生期に 『egg』 を含むギャル雑誌は復活した。2005年、新たに 『小悪魔ageha (こあくまアゲハ)』 という雑誌が創刊される。ギャルホステスをターゲットにした雑誌で、彼女たちは自分たちのスタイルを「アゲ嬢」と呼んだ。2008年の時点でギャル人口は増え、非常に多くのジャンルに枝分かれしてそのファッションは国際的にさらに人気を集めた。「姫ギャル」「姫カジ」「お姉ギャル」「ロックギャル」「アメカジ」などが登場。当時の著名なギャルモデル益若つばさは、ギャル雑誌を含む数多くの雑誌で表紙を飾った。また、DOLLY WINK (ドーリーウィンク) というつけまつ毛などコスメ商品のプロデュ―スも手掛けた。このつけまつ毛は現在も人気商品である。
2000年代後半から2010年代半ばにかけては、ゆったりしてくつろいだファッションがトレンドだった。ギャルファッションは次第に飽きられ、『egg』 も 『小悪魔ageha』 も廃刊に追い込まれた。ギャルブランドも雑誌に続いて勢いを失うか、リブランディングを余儀なくされた。2014年、植野有砂のブランドFIG&VIPER (フィグアンドヴァイパー) がファッション誌 『ViVi (ヴィヴィ)』 の中で 「ネオ・ギャル」 と呼ばれたとして物議をかもした。ギャルの多くがFIG&VIPERはギャルブランドではないと見なしたため、植野有砂本人が出てきて自身のブランドをネオ・ギャルと称したことはないと弁明した。
復活しながらこれほど長く続いたカルチャーは、ギャルファッション以外では珍しい。1980年代の暴走族から2000年代のヤマンバまで、ギャルファッションはさまざまな変化を経てきた。今はポスト・ギャル時代だと断言する人もいる。果たしてギャルは再び主流ファッションとなるのだろうか? それは誰にも分からない。でも、それまでにパラパラダンスの振り付けを練習しておかなくちゃ!
Written by Ash, translated by Tomoko.
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