Vol. 5 第1.1号

ええ、皆さんが考えてることは分かります。編集長がイギリス人だから 『The COMM』 には英国バイアスがかかっていること、認めます。でも、これから話す事は重要だからよく聞いて! 日本のストリートファッションの豊かな発展は、狭い世界の中だけではあり得なかったはず。なぜなら1940年代から原宿には、クリエイティブなシーンに大きな影響力をもたらす海外のコミュニティーがあったからだ。輸入品と好奇心旺盛な若者の組み合わせは大成功を収め、日本のストリートファッションが侮れないファッションの力であることは今や周知の事実だ。ストリートファッションと原宿エリアの形成に貢献したさまざまな流れについて調べてみると、ロンドンや、イギリス人デザイナーたちの名前が頻繁に出てくる。有名な『FRUiTS』 誌の創刊者である青木正一氏は、重要なインフルエンサーとしてChristopher Nemeth (クリストファー・ネメス) とVivienne Westwood

SUPER LOVERS (スーパーラヴァーズ) やX-GIRL (エックスガール) などのブランドは、原宿自体と同じくらい有名だ。90年代そしてそれ以前にも、彼らが日本のストリートファッションを形作ってきたのだ。変化の激しい原宿そして日本のストリートファッショントレンドの中で、これらブランドは何十年にもわたって頑張ってきている! MILK (ミルク) からHYSTERIC GLAMOUR

東京に昔からあるファッションビルの双璧、ラフォーレ原宿と渋谷109を知らない人はいないだろう。今や旅行者はもちろん、地元の人々にとっても不動の人気を誇る双方がこれほどの成功を収めたのは、単なる偶然ではない。ラフォーレが、原宿を「ファッションの街」にするための特別なこだわりを通してきたのはご存知だろうか? 渋谷109は、オープン当初は客足も少なく業績不振であったが、ESPERANZA (エスペランサ) のプラットフォームを身につけたスーパーヒーローのようなギャルたちが押し寄せ、危機を脱することができた。   ラフォーレ原宿 1977年まで原宿で最も人々の関心を集める場所といえば、参拝客数が例年平均5000人の明治神宮だった。だがたちまち全てが大きく変貌する。1978年、神宮前交差点にあのラフォーレ原宿がオープンし、あっという間に原宿は「ファッションの街」と呼ばれるようになった。でも、どうやって? その理由は思ったよりも深い。「ラフォーレ」という名前はフランス語で「森」を意味する “La forêt” から来ている。森というものは1本1本の木で構成されることから、木々 (各テナント) からできた巨大な森

日本のストリートファッションカルチャーにとって、雑誌は長期にわたり不可欠なものだった。過去においては雑誌がファッショントレンドを決め、ギャルとロリータのようなファッショングループを作り上げるきっかけとなった。ときには、だれかの目新しい洋服のスタイリングを見ただけで、雑誌がこれを新しいファッションサブカルチャーだと名付けあおったものだった。読者は雑誌が「旬」と認めたものを確認し、その雑誌を中心としたコミュニティーを作った。今日、私たちはデジタル時代にいるが、原宿はそういった出版物のおかげで現在の形になったのだ。日本発祥の最も伝説的なストリートファッション雑誌の概要を見てみよう!   CUTiE 雑誌『CUTiE (キューティ) 』は1989年に発行された。これは「平成ブランドブーム」が出現した平成元年にあたる。プロのモデルと高級ブランドが廃れ、代わりに読者は自分たちのような女の子を中心とした写真を期待するようになった。『CUTiE』は『宝島』からスピンオフした、1980年代におけるパンクとニューウエーブの若者文化の雑誌で、The Clash (ザ・クラッシュ) やSex Pistols (セックス・ピストルズ) などのバンドの記事やVIVIENNE WESTWOOD

ロリータファッションと言えば、お茶会、「カワイイ」ネイルアート、ANGELIC PRETTY (アンジェリックプリティ) で人気のHoney Cakeワンピースを思い浮かべる。だが、現在のロリータのイメージを形作ったものは何だろう? BABY (ベイビー) のアイコンとも言える赤いエリザベスワンピースからMana (マナ) 様の奇抜なブルーのリップスティックまで、ロリータファッションの歴史はその多数のサブスタイル同様、バラエティに富んでいる。わたしたちはフリルやレースの向こう側に、誰もが知る原宿ファッションの一つであるロリータの起源について真実を探ってみたい。 ロリータファッションの大きなヒントになったのは、ヴィクトリア時代の英国やフランスのロココファッション。そもそもロリータファッションの始まりを知るには1970年代にまでさかのぼる必要がある。「カワイイ」カルチャーが日本中で人気を集め、美化されたフランスのイメージが若者の間で流行していた。当時多くの少女たちは、自分の好きなものや女子力に夢中になることで何とか家父長制をやりすごしていた。トレンドにまつわる商品を買えば、個人としての自由を何らかの形で味わうことができたのだ。MILK

ストリートファッション、クレープ、プリクラに共通するものは何だろうか? 答えは、全て原宿にあるということ! 原宿はいくつかの最も代表的なストリートスタイルの発祥地であり、何世代にもわたり、若いクリエーターたちにとっての東京のお気に入りのたまり場なのだ。過去数十年間でさまざまな原宿スタイルが世界中に広がったが、原宿で現在愛されているファッションは、海外からの影響を受けたことでその道が開けたのだ。竹の子族からデコラまで、東京で最もカワイイ場所の変遷を見てみよう! 原宿の歴史は1940年代までさかのぼる。当時、ここは日本で最初の洗練された国際色豊かな地域だったであろう。第2次世界大戦後、空き地となっていた旧日本軍の練兵場跡地にワシントンハイツと呼ばれる団地が建設された。この団地は外国人、特にアメリカ人家族を地域に招き入れたことで有名だった。原宿付近の若者たちは、その新しい外国人たちと徐々に接触を持つようになる。若者たちは外国人たちのスタイルを羨望の目で見ていたが、同時に今まで見たことのなかった西洋からの刺激により自分たちのファッションを創り出したくなっていった。 1950年代、原宿の次の大規模建築物は、表参道セントラルアパートだ。当初は米軍のために建てられたのだが、多くの空き部屋があったので日本人クリエーターたちが住み着いていた。ファッションデザイナー、モデル、そして写真家が1階にあった有名な喫茶店レオンで出会ったものだった。1964年の夏季オリンピック頃に、ワシントンハイツのアメリカ人が別の基地に引っ越したので、その場所を原宿で最初のブティック、そして深夜営業の商店とカフェに譲ることになった。同時に、ファッショナブルな原宿の若者たちが、原宿族と呼ばれるようになった。   Image courtesy of kyokohiraku via Ameblo. 60年代と70年代、現在裏原として知られている原宿裏通りのアパートの家賃はとても手ごろだったので、若いクリエーターたちが自分たちのデザインした商品やコピー商品を小さな店に売ってもらうために、狭いアトリエで商売を始めた。他のデザイナーは顧客に限定もののコレクションを直接販売するため、竹下通りに小さなショップを借りていた。 1964年、日本で最初のブティックであるMADEMOISELLE NONNON (マドモアゼルノンノン)

VOL. 5第1号「ULTRA NOSTALGIA (ウルトラノスタルジア) 」へようこそ 本号で『The COMM』はサブカルチャーのルーツにもう一度、立ち戻ります。私たちのCOMMunity (コミュニティー) は日本のストリートファッションの先駆者たちの成功により築かれました。ブランド、モデル、ショップスタッフ、それら全てがわたしたちが大好きなファッションを生み出すために重要な役割を果たしてきました! そこで質問です。全ての始まりは何だったのでしょうか? このファッションはどのように作り出されたのでしょうか?