ロンドンから東京へ―イギリスがもたらした日本ストリートファッションへの影響
ええ、皆さんが考えてることは分かります。編集長がイギリス人だから 『The COMM』 には英国バイアスがかかっていること、認めます。でも、これから話す事は重要だからよく聞いて! 日本のストリートファッションの豊かな発展は、狭い世界の中だけではあり得なかったはず。なぜなら1940年代から原宿には、クリエイティブなシーンに大きな影響力をもたらす海外のコミュニティーがあったからだ。輸入品と好奇心旺盛な若者の組み合わせは大成功を収め、日本のストリートファッションが侮れないファッションの力であることは今や周知の事実だ。ストリートファッションと原宿エリアの形成に貢献したさまざまな流れについて調べてみると、ロンドンや、イギリス人デザイナーたちの名前が頻繁に出てくる。有名な『FRUiTS』 誌の創刊者である青木正一氏は、重要なインフルエンサーとしてChristopher Nemeth (クリストファー・ネメス) とVivienne Westwood
デコラの歴史
原宿を特徴づけるストリートファッションを思い浮かべるとしたら、それはデコラと言ってよいだろう。誰でも、はるか遠くからでもこのファッションを見つけることができる! デコラファッションは色彩とアクセサリーの爆発だ。これは原宿の活気に満ちたスピリットを見事に具現化している。このファッションが生まれた経緯は少し複雑で、そこには矛盾に満ちたストーリーがある。記事を最後まで読んで、どのようにデコラファッションが現在のようになったかを学んでいこう。 「デコレーション」という言葉から生まれたデコラは、1990年の終盤に、原宿の街角に現れたカラフルで陽気なファッションだ。どのデコラファッションでも特に目立つのは、100円ショップのヘアクリップや腕いっぱいのリストバンドなどのアクセサリーだ。普通の化粧ではデコラには地味すぎるので、代わりにシールやストーンがファッションの盛り上げ役となっている。通常、身につける服はハンドメイドだが、ファッションをブランドで統一するならそれは間違いなくSUPER LOVERS (スーパーラヴァーズ) 、そしてもちろん6%DOKIDOKI (ロクパーセントドキドキ) だ。 Image courtesy of wattention.com 1995年、増田セバスチャンにより創立された6%DOKIDOKIは、原宿のファッションと文化において定番となっている。きゃりーぱみゅぱみゅに詳しい人なら、ヒットシングルの「PONPONPON」のミュージックビデオの裏側にいるクリエーティブディレクター兼スタイリストの増田セバスチャンを知っているだろう。6%DOKIDOKIは常に最高でとても素敵な洋服を供給してきているように聞こえるが、ショップ開店当時の状況はまったく違っていた。増田は自分と友人のアート作品を販売する目的で店を開いた。しかし、このベンチャービジネスが失敗に終わったとき、方向性を完全に変えた。古着と東京人が後に洋服に取り入れた雑貨類の販売を始めたのだ。おもちゃからリボン、そしてカーテンなど、あらゆるものがアクセサリーになり、ファッションとして生まれ変わったのだ。増田によると、これがデコラの始まりだった。このファッション人気の高まりを見て、増田は若者ファッションのニーズを満たすアクセサリーを創り出し始めた。 Featured
ファッション、『FRUiTS』、ホンモノを追求するFerro Ashleyさんをご紹介
Ferro Ashley (フェロ・アシュリー) さんは、よくいる典型的ファッショニスタではない。ソーシャルメディア嫌いのようではあるが、常にカメラスタンバイOK、『FRUiTS (フルーツ)』 のストリートスナップみたいにクールだ。そんなFerroさんに 『FRUiTS』 のファッション、SNS、音楽についてお話を伺った。 自己紹介をお願いします。 Ferroといいます! 28歳です。スペイン在住で、90年代から2000年代のJファッションをリサーチして着こなすのが大好きです。 Ferroさんは『ita.toys』というご自身のホームページをお持ちですね。そのコンセプトと理念を教えていただけますか? 『ita.toys』 は、ワードローブを記録して将来読み返せる日記のようなつもりで始めました。以前していたSNSにつきものの通知やフォロワー数といったプレッシャーなしに自由に創造力を駆使して作ったコンテンツを発表できるような、自分のためのネット空間が少しだけ欲しかったのです。 最近はずっと、『ita.toys』
ブランドの進化 80年代、90年代、そして現在
SUPER LOVERS (スーパーラヴァーズ) やX-GIRL (エックスガール) などのブランドは、原宿自体と同じくらい有名だ。90年代そしてそれ以前にも、彼らが日本のストリートファッションを形作ってきたのだ。変化の激しい原宿そして日本のストリートファッショントレンドの中で、これらブランドは何十年にもわたって頑張ってきている! MILK (ミルク) からHYSTERIC GLAMOUR
大型ファッションビル、夢は大きく。ラフォーレ原宿と渋谷109の重要性
東京に昔からあるファッションビルの双璧、ラフォーレ原宿と渋谷109を知らない人はいないだろう。今や旅行者はもちろん、地元の人々にとっても不動の人気を誇る双方がこれほどの成功を収めたのは、単なる偶然ではない。ラフォーレが、原宿を「ファッションの街」にするための特別なこだわりを通してきたのはご存知だろうか? 渋谷109は、オープン当初は客足も少なく業績不振であったが、ESPERANZA (エスペランサ) のプラットフォームを身につけたスーパーヒーローのようなギャルたちが押し寄せ、危機を脱することができた。 ラフォーレ原宿 1977年まで原宿で最も人々の関心を集める場所といえば、参拝客数が例年平均5000人の明治神宮だった。だがたちまち全てが大きく変貌する。1978年、神宮前交差点にあのラフォーレ原宿がオープンし、あっという間に原宿は「ファッションの街」と呼ばれるようになった。でも、どうやって? その理由は思ったよりも深い。「ラフォーレ」という名前はフランス語で「森」を意味する “La forêt” から来ている。森というものは1本1本の木で構成されることから、木々 (各テナント) からできた巨大な森
ギャルの歴史
プリクラ、ルーズソックス、ポケベル、パラパラダンス、日焼け肌、デザイナーズブランドの制服、やんちゃな女の子、援助交際、渋谷109。すべてギャルの構成要素だ。90年代初めに「突如、出現」し、その後数十年続いたファッションに女学生は半狂乱、大人たちは茫然となった。ギャルがファッションの歴史にどのような影響をもたらしたかを見てみよう。 ギャルの起源はおそらく1980年代にさかのぼる。当時、東京のストリートを支配していたのは女性暴走族だった。彼女たちのハードコアなファッション、態度、卒業式のような通過儀礼はまさに現在のギャルと重なる部分がある。しかもそれが今の「ギャルマインド」と呼ばれる、反抗心の具現化であればなおのこと。雑誌 『ティーンズロード』 は小さな街に住む女子高生にヤンキーファッションを紹介した。やがて漢字が刺しゅうされたレザージャケットやボイラースーツがトレンドの中心になると、ヤンキーファッションを真似る人が出てきて、実際の女性ヤンキーがそれに憤慨したという。スタッフが「読者からの暴力にうんざりした」という理由で 『ティーンズロード』 は結局、廃刊になってしまった。女性ヤンキーの中には誘拐された人もいた。 同じころ、渋谷で一流大学のクラブのパーティーが開かれていた。主催はチーマーと呼ばれるまとめ役。裕福なチーマーはまじめに勉強せず、いつもダンスばかりしていた。チーマーのガールフレンドはLAのビーチファッションをまねてパラギャル、つまり「パラダイスガール」の異名をとる。当時のパラギャルは知る由もないが、そのセンスは1990年代に受け継がれるファッションのもとになった。 コギャル (「コ」は「小さい」または「子ども」の意) は1990年代に登場した。その名はもともと警備員のスラングで、年長者を装ってクラブに忍び込もうとしたパラギャル女子高生を指したとされる。茶髪、短めの制服スカート、ブランド制服のブレザー、オーバーサイズのカーディガンに、少しだけ日焼けした裕福な女子高生は当時、流行の火付け役だった。白のルーズソックスと白いアイメイクをプラスすればパーフェクト! でも、なぜ放課後に制服? 実は、有名校によるファッショナブルなデザイナーズブランド制服を用いた学校PRは、新入生をゲットするためによく使われる戦略なのだ。生徒たちは放課後もブレザーとスカートを着ることによって、センスが良く有名校の生徒であるという証拠と自分たちの若さを世間にアピールした。 Image courtesy
ショッピングスポット:90年代版
90年代の原宿はどうだったのか知りたくないだろうか? 思い出をたどって1990年代の原宿で最高だった8つの象徴的なブランドをもう一度調べてみよう! 20471120 アバンギャルドでサイバー系の服が大好きな人たちにとって、20471120 (トゥオーフォーセブンワンワントゥオー) は1番のお気に入りだ。このブランドの性別にとらわれない服は、多様性、個性、独創性の未来へのラブレターであり、若者の心に強く響いた。1999年秋冬物コレクションと、大阪で発表された1996年のコレクションを見てみよう。 モデルたちはスパイキーな髪型で、『DUNE (デューン 砂の惑星) 』にインスパイアされたスキーブーツとユニークなオーダーメードの服を着ていた。 20471120のデザイナーである中川正博は、このブランド名が一夜の夢から来ていると説明している。彼は2047年11月20日に、多くの人と一か所に集まり歓声をあげ、みんなの生きてきた人生を祝福したいと言っている。今からカレンダーに印をつけておこう! Image courtesy
原宿関連の出版物: 知っておくべき日本のファッション雑誌8誌!
日本のストリートファッションカルチャーにとって、雑誌は長期にわたり不可欠なものだった。過去においては雑誌がファッショントレンドを決め、ギャルとロリータのようなファッショングループを作り上げるきっかけとなった。ときには、だれかの目新しい洋服のスタイリングを見ただけで、雑誌がこれを新しいファッションサブカルチャーだと名付けあおったものだった。読者は雑誌が「旬」と認めたものを確認し、その雑誌を中心としたコミュニティーを作った。今日、私たちはデジタル時代にいるが、原宿はそういった出版物のおかげで現在の形になったのだ。日本発祥の最も伝説的なストリートファッション雑誌の概要を見てみよう! CUTiE 雑誌『CUTiE (キューティ) 』は1989年に発行された。これは「平成ブランドブーム」が出現した平成元年にあたる。プロのモデルと高級ブランドが廃れ、代わりに読者は自分たちのような女の子を中心とした写真を期待するようになった。『CUTiE』は『宝島』からスピンオフした、1980年代におけるパンクとニューウエーブの若者文化の雑誌で、The Clash (ザ・クラッシュ) やSex Pistols (セックス・ピストルズ) などのバンドの記事やVIVIENNE WESTWOOD
裏原宿の歴史
ストリートウェア・ムーブメントは、ファッションの無視できない力だ。ここ20年以上で、ストリートウェアブランドは地球規模で勢いを増しており、ダッドスニーカーやぶかぶかのフーディーはランウェイの定番だ。故Virgil Abloh (ヴァージル・アブロー) やNIGO (ニゴー) のようなストリートファッションのパイオニアは今やラグジュアリーブランドを率いるリーダーであり、ストリートウェアとラグジュアリーファッション間のギャップを埋める役割も果たした。 UNDERCOVER (アンダーカバー)、BAPE (ベイプ)、NEIGHBORHOOD (ネイバーフッド)、WTAPS (ダブルタップス)
ロリータの歴史
ロリータファッションと言えば、お茶会、「カワイイ」ネイルアート、ANGELIC PRETTY (アンジェリックプリティ) で人気のHoney Cakeワンピースを思い浮かべる。だが、現在のロリータのイメージを形作ったものは何だろう? BABY (ベイビー) のアイコンとも言える赤いエリザベスワンピースからMana (マナ) 様の奇抜なブルーのリップスティックまで、ロリータファッションの歴史はその多数のサブスタイル同様、バラエティに富んでいる。わたしたちはフリルやレースの向こう側に、誰もが知る原宿ファッションの一つであるロリータの起源について真実を探ってみたい。 ロリータファッションの大きなヒントになったのは、ヴィクトリア時代の英国やフランスのロココファッション。そもそもロリータファッションの始まりを知るには1970年代にまでさかのぼる必要がある。「カワイイ」カルチャーが日本中で人気を集め、美化されたフランスのイメージが若者の間で流行していた。当時多くの少女たちは、自分の好きなものや女子力に夢中になることで何とか家父長制をやりすごしていた。トレンドにまつわる商品を買えば、個人としての自由を何らかの形で味わうことができたのだ。MILK