2月 2021

アイリです。 自己紹介をお願いします。 Tokyo Punkidと申します。2018年から活動を始め、主に日本の刺青文化をバックグラウンドにグラフィックアートの製作をしています。作品は全て浮世絵同様、手描き原画で起こした版で手刷りです。 アイリさんにとってパンクファッションとはどのようなものですか? パンクファッションとは、70年代初頭から自己主張や自己表現から生まれる、主流と逆らうファッションで、まさにモヒカンや鋲ジャンなんてのも普通の人はこんな格好しないだろって、その上でオレはここに居るぞって表現がパンクなんだと思います。まぁでもあくまでスタンスの話なので最近の原宿のパンクぶったガキ共はなんかてんなーって思います笑 僕の中でのパンクはそれとは違いティーンエイジライオットのような反抗に近いものだと思います。Tokyo Punkidという名前もそんな感じです。     Tokyo Punkidであるということはどういうことか、教えてください。 Tokyo Punkidとは名前のまんまで、東京での反骨したパンクなガキって意味でもありますが、大部分は父親の影響から来ています。 僕が幼い頃にドラッグのODで死んでしまったその父は江戸川の下町で少し有名な彫り師でした。当時僕がまだ小学生の頃に見た父の個展で圧倒してくる作品達、SNSなんかない時代であの集客数、半端じゃないカリスマ性にガキのくせに死ぬ程ガン喰らいしました。

水色戦士のエミリです。現在は6%DOKIDOKIで SHOPSTAFFとして働いていて 『Glem』という ハンドメイドブランドがあります。 エミリさんにとって原宿ファッションとはどのようなものですか? 普段服でもあり、戦闘服でもあります。どちらにせよ私の気分を高めてくれる特別なファッションです。服に関して私は、絶対的にカワイイものでなければ着たくありません。根本的に好きなモノが、私のテーマである水色だったり、キラキラしたものだったりとファンシーで少女趣味のものなので、普段は落ち着こうと思っていても無意識的に選びとってしまいます。 あまり公にはしませんが、プライベートでは暗く辛い道を歩んで来て、身近な人ほど沢山敵がいます。その暗い部分を繕うためにも私は原宿ファッションを続けているのかなと最近思います。何度も人生諦めたいと思うことが沢山あったけど、私の中の原宿ファッション、水色のお洋服を身に纏った時間だけは強くいられるのです。だから私は水色戦士というテーマをつけて、自分の原宿ファッションを体現しています。 なので私にとって原宿ファッションは、自分の好きを表現する普段着でもあり、普段見ている暗い世界を色付け、自分を強く見せる戦闘服でもあるのです。     Glem (ぐりむ) であるということはどういうことか、教えてください。 Glemは、私のハンドメイドブランドです。私はおとぎ話に出てくるプリンセスや妖精になりたかった幼少時代を送りました。今でもそういう風に思います。きっとそんな風に思う子達は世に沢山いると思い、Glemのアクセサリーをつけておとぎ話の主人公のようになれればいいなという思いでブランドを立ち上げました! おとぎ話に出てくるような、キラキラアクセサリー屋さんGlem。誰だってみんな物語の主人公になれる♡がブランドのテーマです。メインで活動はしていないので、不定期ですが新作を出したり、半年に1回ほどイベントでブースを出したりしています。     Instagram | Twitter | Tiktok Images courtesy of

喜びの瞬間、「カワイイ!」と叫ぶ瞬間、そこにいるのはわたしたち専用の妖精のゴッドマザー。道を飛び回りながら、指を鳴らすだけで喜びをもたらす。彼女のコミュニティへの贈り物は、完璧なパステルカラーのコーディネートと多すぎるほどのアクセサリーを付ける能力だ。シフォンやオーガンジー、ピンクのガウン、そして頭の上の王冠で、彼女はどんな平凡な瞬間にも喜びと可愛らしさを添える。『カワイイ』コーディネートをまとめる方法がわからない? 願い事をして、彼女にやり方を教えてもらいましょう。     Model: @pinkgaijin Photographer: @misa_kusakabe Photo editing: @misa_kusakabe Shoot Direction: @choom.online Styling: @choom.online Makeup: @kanako_makeup Assistance:

ぱっつんと切った前髪、遊び心のある服、そして数えきれないほどたくさんのプラスチック製アクセサリーで、歌手兼タレントの篠原ともえさんは、10代の頃、エンターテインメントとファッション世界を席巻した。篠原さんのユニークなスタイルは若者に愛され、「シノラー」というファッションブームを巻き起こした。ティーンの誰もが彼女になりたい、彼女のようなスタイルをしたいと思っていた。時は流れ現在、篠原さんは原宿ストリートファッションのレジェンドとなっている。しかし、彼女は音楽やテレビからイラスト、衣装やテキスタイルデザインへとシフトしている。原宿のアイコン的な存在である篠原さんに、まるでジェットコースターのような人生についてお話を伺った。   歌手・アーティストとしての活動を始めたきっかけを教えてください。 10歳の頃バレエを習いステージに立ったことで、エンターテインメントの世界に憧れを持ちました。心を使う表現のクリエイションと、華やかな衣装の創作クリエイションという二つのジャンルに心が惹かれ、夢を叶えていきたいと思いました。 16歳で歌手としてデビューされましたね。芸能界で活動され如何でしたか? 歌手オーディションを受け合格し、その後ボイストレーニングなどのレッスンを受け1995年にデビューが決まりました。ライブツアーでは歌を作り、衣装もデザインしながら、武道館ライブをすることができた事は嬉しかったですね。その後は、メディアへの出演とともに女優としてミュージカルに挑戦したり、舞台や映画など様々な仕事の中でエンターテインメントに携わるキャストとの出逢いが広がり、今の衣装デザインの仕事につながっていきました。     当時、篠原さんのファッションと明るい人柄が多くの人に愛されたのはなぜだと思いますか? ムーブメントはテレビ番組の影響が大きかったですね。インタビューのコーナーではジェームス・ブラウンさんなどにデザインしたグッズをプレゼントしたり、お会いできたことが嬉しくてはしゃいでいると、私の話し方やポーズまでもがブームになり「シノラー」というスタイルが確立しました。男女問わず自由なファッションを楽しみたいという時代の流れと、私自身の「いつだってオリジナルでいたい!」というスタイルが90年代の風潮にぴったりと合ったのだと思います。 お団子のヘア、プラスチック製アクセサリー、スーパーラヴァーズの全身コーディネートなど、オリジナルのファッションを築き上げました。今まで誰も見たことがないようなスタイルにしようと思ったきっかけは何ですか? 自分に似合うファッションを探していく中で、誰とも違ったオリジナルを目指しました。テレビ画面をステージと捉えて、カラフルな衣装やアクセサリーを作り、パフォーマンスしていました。すると自分の手でオリジナルを生み出す高揚感やものづくりを楽しむ気持ちが、小さなお子様から同年代、またその上の方々まで響き渡り、やがて私のファッションがブームとなりました。全国のファンから手作りのアクセサリーがたくさん届いたり、自分の独自のファッションが皆さんに共感していただけたことはこの上なく嬉しかったです。     シノラーファッションのブームが起こり、ファンが篠原さんのスタイルを真似しました。その後、世界的にも人気のあるスタイル「デコラ」が登場しました。自分のファッションが一つではなく、二つの流行を生み出したと感じたことはありますか?また、デコラとシノラーの違いは? 私はマニッシュなスタイルが好きだったので、カラフルな原色を使うのがシノラー、サイバーで蛍光色なスタイルがデコラという印象があります。当時のアクセサリーもカラフルな縄跳びを腕輪にしたり、ビーズを自分の好きな色に並べて作って腕にいっぱい付けていました。デコラもシノラーも「オリジナルを自分で作り出す」ということでは共通していますよね。日本人は元々ものづくりが好きというDNAが宿っているんだと私は信じています。 原宿はあなたのファッションにどのような影響を与えたと思いますか? 2020年にアートディレクターである夫・池澤樹とクリエイティブスタジオを立ち上げました。新しく設立したデザイン会社は、原宿にあるんです。ファッションにおいても、カルチャーにおいてもエネルギーがあふれ大好きな街です。近年の展覧会も原宿の隣の渋谷で開催しました。今はコロナにより世界中が不安な状況ですが、原宿周辺もまたショップなどが変わり新しい環境が生まれはじめています。これからもオリジナルの都市として街全体でファッションの新しいムーブメントを創作してゆきたいです。     これまでのキャリアの中で、あなたはいつも自分の心のビートに合わせて突き進んできました。どのようにそれ程の高い集中力を維持されてきましたか? 手を動かすことが、私のアイデアソースになっています。服が作りたければ布に触れ針を持ちとにかく作ってみる。鉛筆で何か絵を描いてみるなど、心を研ぎ澄まし日々クリエイションに励んでいます。近年は着物から発想した四角いパターンの服づくりに挑戦していますが、そこにはものづくりに欠かすことのできないSDGsとの向き合いがあったり、これからはより社会とつながりながら創作に取り組んでいきたいです。海外でのお仕事も目標としているので、世界中の方に自分のクリエイションを知っていただけるよう、これからも手を止めることなく作り続けようと思います。インスタグラムではイラストレーションから製作衣装まで、私の作品を幅広くアップしているので是非チェックしてみてくださいね。 日本では職人といった一つの分野を極めることが高く評価されているようですが、あなたは常に幅広いジャンルに興味を持っていますね。専門性と多様性についてはどのようにお考えですか? 私はこれまでの仕事で、歌うオファーがきたらボイストレーニングを受け、お芝居のお仕事が来たら演技を習いに行くなどしていました。仕事に合わせ学びを重ねることはエンターテインメントに対するマナーです。最近も、20年ぶりに新宿にある母校の文化学園に通い直しました。デザインにおいては様々なジャンルの世界を知ることはアイデアを広げてゆくことにつながるので、これからも好きなことを追求するために専門分野を学ぶことを続けていきます。 篠原さんのキャリアの中で最も印象に残っている出来事は何ですか? エンターテインメントの世界に入り今年で25年目を迎えましたが、これまでのキャリアを生かし、アーティストの衣装製作や作品ディレクション、企業ブランディングや企画に時間をかけて取り組んでいる今が一番刺激的です。これからは私自身だけではなく、新会社「STUDEO」のアーティストとして、アートディレクターである夫やデザインチームと協働し、さらにクオリティの高いクリエイションを目指していきたいです。     Instagram Introduction and questions by Vania, introduction translated by Anna. Images

温かい笑顔とエレガントで優美なスタイルの彼女は誰でもコミュニティへ歓迎する。コミュニティのメンバーはファッションの悩みを抱えて彼女のところへやってくる。彼女は耳を傾け、尋ねてくるすべての人に知恵を与える。彼女はコミュニティの中心にいる。みんなの悩みを解決しながら、コミュニティが何でも一緒に達成してくれることをわたしたちに思い出させながら、世界を飛び回っている。     Model: @ninth.child Photographer: @misa_kusakabe Photo editing: @misa_kusakabe Shoot Direction: @choom.online Styling: @tabesugita Makeup: @kanako_makeup Assistance: @mia.mccarey Wings:

6%DOKIDOKIやきゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPONPON」のミュージックビデオを手がけた天才アートディレクターと言えば、改めて紹介するまでもないだろう。増田セバスチャンである。増田さんは原宿からスタートし、世界中を旅して「カワイイ」カルチャーを発信してきた。しかし、1995年に6%DOKIDOKIがオープンして以来、原宿は大きく進化している。増田さんの無限の創造性と芸術性が世界的に反響を呼んでいる中、彼と6%DOKIDOKIは「カワイイ」カルチャーと原宿の未来にどのような役割を果たしていくのだろうか?   6%DOKIDOKIを立ち上げたきっかけを教えてください。 原宿で活動をしようと思って始めたのが、6%ドキドキだったんですね。6%ドキドキは最初お店というよりは、自分の作品や自分のアートワークとか、あと友達のアートワークを一緒にこう展示して、販売したりみたいな感じでやれたらいいなーって思ったんですけど。全然最初は作ってもお店を立ち上げても、お客さんが来なくて。だんだんその時に、古着やあとはビンテージトーイとかそういう物を売って、最初は色々な物を自分の好きな物を並べて、お店をやっていました。 ショップガール・ボーイといえば、6%DOKIDOKIの代名詞ですね。そのきっかけを教えてください。 ショップガール・ショップボーイというのは、2005年からそういった物をスタートしたんですけれども、一番最初にこのきっかけになったのは、ロンドンにあったヴィヴァっていうファッションのショップがあったと思うんですけれど。ヴィヴァのショップの店員はフォトグラファーがいたり、後モデルがいたり、色々な人がいたので、そういった人からショップガールとしてヴィヴァで働いていたので、 ドキドキもそういったアーティストやクリエイターみたいな存在がショップガール・ショップボーイとして働いてもらえたらいいなと思って始めましたね。日本ではそういった物はなかなか無かったので、日本では初めてそういった形で活動したと思います。   Image courtesy of Tokyo Fashion. 多くの人が、デコラを普及させたのは、「6%DOKIDOKI」だと言っています。増田さんのブランドは、このファッションジャンルの創造にどのような役割を果たしたと思いますか? 当時、1990年代に6%ドキドキっていうのは裏原宿っていうエリアでオープンしたので、そこの若いヤングジェネレーションが皆ドキドキに集まってきて。当時はファッションのお店では無かったんですけれども、色々なそういったプラスティックトーイだとか色々なおもちゃとか、あとはインテリアだとか、そういった物を段々こうファッションに取り入れるようになっていった。篠原ともえちゃんというタレントが当時いて、そのタレントがそういった物を更に過剰に着けてテレビに出たので、日本中の人たちがテレビのともえちゃんのファッションを見てだんだん影響されていったっていうのは大きいと思います。 増田セバスチャンと6%DOKIDOKIを抜きにして、「カワイイ」ファッションを語ることはできません。あなたのブランドがこれほどまでに海外の人々を魅了しているのはなぜだと思いますか? これは自分が分析すると、やっぱり一番思うのは正解を作らなかった事、答えを作らなかった事というのが一番大きい。これはどういうことかというと、例えばコスプレだと、そういったキャラクターっていう正解がある。ロリータファッションだと、そういう正解のファッションがある。でこの「カワイイ」とかデコラファッションは正解がないと。自分が好きな物をどんどん身に着けたり、それをどんどん好きになっていったり、それが正解で、一万人がいたら一万通りの正解があるという物をコンセプトとして打ち出したのが、多分世界中に通じているコンセプトとなって広がって行った。 もう一つ、カラフル。カラフルな物を身に着けるっていうのは、その世界中どこでもではなくて、日本だけのオリジナルのもの。ロンドンとかヨーロッパに行くと、ずっとあの茶色の世界で、町も石のそういった灰色のそういった建物ばっかりが並んでいる。なかなか世界にはカラフルな物が無いから、これは日本独特のカルチャーかなとは思っています。 ソーシャルメディアが「カワイイ」カルチャーに与える影響を教えてください? ソーシャルメディアがそのSNSとかやっぱりYouTubeが出る前は、自分とドキドキのショップガールが現地、世界に色々な所に行ってファッションショーをコーディネイトしたり、一緒にワークショップして一緒にファッションショーを作ったり、そういった物で世界中に回っていったんだけれども。やっぱりYouTubeでそういった動画がムーヴィーが配信されると、自分が行かなくても色々なところでそれを見ることができた。その人として、きゃりーぱみゅぱみゅのポンポンポンっていうのはすごく大きな役割を果たした。そのことに対して、ソーシャルメディアが人と人のファッションについて語り合う場所ができて、それがこうどんどん広がっていったと思うので。 これまでは原宿のファッションが好きな人たちと繋がるためにワールドツアーを行っていましたが、コロナ禍の影響でオンラインイベントに移行されましたね。なぜ世界のオーディエンスと繋がることが重要だとお考えですか? 「カワイイ」っていうのはもっとフィロソフィーなものだと思って考えているので、このコロナの時期でみんなファッションをしたりお洒落したりできない中で、もっとフィロソフィーとして考える時間がある中で、もっと考えることが必要だと思っていて。それで今は「カワイイ」のをどうやってもっともっと世界に広めていくかというのを今すごく色々な国と会議しているんですね。もっともっとこの「カワイイ」のフィロソフィーがあれば、もっともっとハッピーになれるし、もっともっとピースフルになれる。   Image courtesy of Sebastian Masuda. 6%DOKIDOKIの旗艦店を立ち上げてから、原宿、特に裏原はどのように進化していると思いますか? 1998年にホコテンがなくなってからは、原宿っていう場所は場所ではなくて、コンセプトになって、世界中に原宿ができていったというふうに考えています。原宿っていう場所はどんどんオリンピックに向かって、観光地化していって、でもオリンピックはなくなったんだけれども。早めに原宿っていう町が自分がすごく予想していたのは、原宿っていうのはオリンピックまでにピークになってその後に下がっていく。その時にレントとかそういったものが安くなるから、その時に若いヤングジェネレーションが来てそのお店を借りたり、後は裏通りのストリートの場所で自分だけの小さなお店を開いたりっというムーブメントが来ると思っていた。だから今はそれがコロナで早まっているので、今がチャンスかもしれないと思うので。だからヤングジェネレーションのクリエーターはチャレンジしてほしい。 原宿のストリートファッションとの出会いを教えてください。 自分が10代の頃に、千葉県の松戸って言う所に出身で住んでいました。そこから原宿って30分から40分ぐらいで来れるので、10代の頃は地元の友達とはあまり仲が良くなかったので原宿に来ていた。原宿に来ると皆同じような考え方の人や趣味が近い人がいたので、そういう人と集まって遊んでいた。その頃は歩行者天国ホコテンがあって、そこでは竹の子族とか、バンドブームがあって、ゲリラライブをやっているバンドがいたり。その頃に原宿のストリートファッションに出会った、って言うのが思い出です。 今日の原宿ストリートファッションについて、どう思いますか? 自分の個性、インディヴィジュアルなものがあまり出ていなくて、オリジナリティーが少ない。例えば、最近は特にヒップホップとか、そういったカルチャーに影響されてるのが多いので、オリジナリティーをもっと。影響されるのは若い頃に色々なものに影響されるのはいいと思うんだけれど、そこからオリジナルなクリエイティヴにしていって欲しいと思うんだけれど。今の原宿は前よりそのオリジナリティーが少ないかなと感じています。 昔はそういう洋服が売っていなかったから、ちょっとリメイクしたり、自分で考えたり、やったんだけれども、今はインターネットで見たまんまを着たり、工夫が、クリエイティヴがちょっと足りないな、っていうふうに感じます。 「カワイイ」運動から学べることとは? 表面的な事をどうしても最初は入ると思うのね。こういう「カワイイ」ファッションをしたいとか、こういうメイクをしたいとか、そういうふうに入るの。それでオッケー。でもそれを好きになった自分はどういう気持ちなんだろうかっていうのを考えると、あ、誰々に対しての反抗だったりリベリオンだったり、誰々に対しての、やっぱり誰かをハッピーにしたいっていう気持ちだったり。自分はこういったカラフルなものが好きだという自分を嘘をつくことができないことだったり。色々なことがわかると思うの。だから、「カワイイ」ってことは最初はスペシフィックなところから入るのでいいんだけれど、そっからだんだん自分の中を考えてみると、色々なことが分かる。そのことがすごく重要だと思っていて、自分が次の世代にバトンタッチする時には、そこを変えないでそのまま続けていって欲しい。ファッションをどんどん楽しんで欲しいし、色々なファッションショーをやったり、色々なコミュニティーを作ったり、色々なものをやっても全然構わないんだけれど、一番スピリット、一番奥の部分は守り続けて欲しい。それが一番「カワイイ」の一番根幹になることだと思っています。   Instagram Introduction

あなたの願いを叶えるために、反逆に特化した妖精がここにいます。アメジストの色、輝き、そして反抗的なスタイルで——彼女のようにルールを破るひとはいない。彼女は異端児だ。彼女は革命家だ。彼女は燃えるような精神を内に秘めている。妖精は陽気でふわふわしているべきもの、なんて誰が言った?     Model: @ri.ooo_saa Photographer: @misa_kusakabe Photo editing: @misa_kusakabe Digital wings: @fancyfairyangela Shoot Direction: @choom.online Styling: @domsyn Model